ビリヤードが上手くなる、のセンターピンは何なのか

 以前にも書いたが、ビリヤードが上達するために究極的には何が実現できればいいのか?果たして「上手くなる」の定義とは何なのか?何がセンターピンなのか?

 入れやポジションは重要だろう、知識や勝負の駆け引きといった物も大切かもしれない。センスという言葉も様々なところで聞く話だし、その全部なのかもしれない。だが、要素分解していったときにロジックツリー的な物の一番下にくるのはおそらく、

 「目的の位置へ、望むスピードと、望むスピンで手球を移動させる能力」ではないか。

 それらの一定以上のアビリティ(能力)とアキュレシー(精度)があるからこそ、入れ、ポジション、知識、メンタルコントロールといったスキルが積み重なるのではないかという考えだ。要は心技体ではなく、体→技→心。体がコントロールできるできるから技術が効率的に身につき、安定した技術が身につくから自己のプレイに自信が持て、出来るようになることが増えて一段上の技術にチャレンジできるようになり、そうするとだんだん上手い人にも勝てるようになり、勝ちの経験が新たな勝ちを呼び、結果として良いメンタルでプレイできるようになるという仮説だ。

 極端な仮定だが、環境要因は無視したとして、100%狙った場所に狙ったスピードとスピンで手球を運ぶことが出来たとすれば、ミスは0%となる≒基本的に相手に負けることはない。

 では上記に対して、何の「アビリティ」と「アキュレシー」があれば条件を満たせるのか、手球の動きに対して物理的な影響(抵抗や湿度などは無視すると)の大部分を与えるのはキューであり、そのキューをコントロールするためのキューイング、その「アビリティ」と「アキュレシー」が最も重要だ。また、そのために必要なのは体のコントロールであり、これも以前の記事で書いたが体の構成要素は筋肉と骨であるので、それらの普遍的な正しい使い方=キューイングの「アビリティ」と「アキュレシー」に直結するといえる。

 自分は偉そうに言えるほど上手くないが、一応長年ビリヤードをやっていると様々なシーンに出会う。大変な熱意をもって練習されている方もよく見るが、一見して体の使い方=キューイングのアビリティとアキュレシーの研究度合いに大きな課題があるにも関わらず、ポジショニングやドリル、高難易度のショットや知識だったり、勝負に関するようなことを教えられたり黙々と独自練習している姿を見かけたりして大変な熱意があるだけに非常にもったいないことだと思う。

 またこれは自分に関しての反省もある。当初、感覚と量でやってきて一定のレベルまでは上がったが、自分は卓越した先天的なセンスや他の競技での体の使い方の感覚が全くなかったため、やはり伸び悩みが多かったことは否めないし、最近になって要素分解して体の事を考えたり試行錯誤するプロセスを通し、再度技術レベルを上昇カーブに乗せられたと確実に実感できる。ずいぶん時間を無駄にしたなとは感じるものの、その経験があったから今改めて新しい発見があるし、昔のあれはこういう事だったのか、と点と点が線につながる経験が未だに持てることが純粋に楽しい。

 ちなみに、複数のある日本の上位ランキングプロとたまたま最近こういったテーマについて話すことがあった。体の使い方に関しては特に考えていないそうである笑。入れて、ここにポジションしたいからそのように頑張って撞く、という事で、ある程度以上の先天的/感覚的なベースがあって、練習でさらに磨きをかけているのである。

 逆に言えばそれが彼らをトッププロたらしめているのであり、それは優劣ではなく彼らの特性・やり方であり、私も含めた今アベレージプレイヤーである存在が今から彼らに追いつき勝負するために必要な方法論は、自ら紡ぎだしていかなければならない。

 別の言い方をすると、彼らの体で何が起きているか、リバースエンジニアリング的な手法でハックし、人間工学的に普遍的でベストパフォーマンスが出せる体の使い方を身に着ける、という考え方だ。

 今回書ききれなかったので今後の検証したいことをメモする。

  • キューイングの左右のブレ、上抜けもよろしくなさそう。下はどうか
  • 自分の癖は上抜けとフック、なぜ起こるのか、フックの原因は見当がついており修正されてきている。上抜けをどう修正するか
  • なぜ上抜けが起こるのか
  • ヘッドアップはなぜするのか
  • 肘が早く落ちてしまうのはなぜか
  • 極端は話、肘を固定してキュー先ををラシャに向けてキューイングするイメージだと宇和抜けは解消されることが予想されるが、何が起こるのか
  • レストは支点、グリップは力点でキュー先は作用点
  • 力点であるグリップをフィニッシュで上げる動作が、作用点であるキュー先が下がっていく?
  • 重心に近いベクトルラインをjキューが通ることで、より手球の重みがキュー先に伝わる感覚(グリップ感)が増すか、最後まで的球を狙えているか
  • そもそも、フックもそうだが上抜けやヘッドアップといった現象面へのソリューションは本質的ではない?それが起きるのは体の使い方のバランス悪い不自然さから起こる修正作用である「結果」なので、そこを直そうとしても解決にはならない可能性?

勝敗とはどういったものなのか

 我々は「負け」より「勝つ」ことの方が良いであったりとか、そこに対して意味づけや目的の付与といった過剰な解釈、結果に対して執着を持ちやすい。

 一般的に勝利という結果に価値があるという事を、我々は疑いようもなく刷り込まれており、良いとか悪いとかの意味づけを、いわば思考停止的に受け入れて過ごしているため、普段それらに対し本質はいったい何なのだろうかという疑問、相対化した考えを持ち得ていない。勝=利。勝つことに利があるという解釈に骨の髄まで囚われてしまっている。

 我々をして他者を出し抜き、病的に勝利に駆り立て、格差を生み対立させることでことでメリットを得ている存在があり、それが何なのかは今回のテーマから逸脱するのでので述べないが、その牢獄から自由になるために、まず気付くことが重要である。

 では勝ち負けとは何か。「勝ち」とは負けていない状態、「負け」とは勝っていない状況である。今更何をと思うが、これは本質であり世の中の真理に近い。負けが在るためには勝ちが必要であり、逆もまた真、表裏一体である。いわば一枚の紙、コインの裏表であり、表だけが欲しいとか、表の方が価値がある、いや裏だ、などという片方を望む望まないという議論は的外れであり、表を破れば裏も破れるのであり、裏を求めれば表も付いてくるのであり、裏と表両方で完結しているのである。

 これはこの世の不変的な法則である。月の満ち欠け、季節、川の流れ、男女、水・氷といった物質の容態、全てにおいて共通している。両方や全ての性質を合わせて全体なのだ。今見えている状態はスナップショットであり大いなる全体の一面に過ぎない。役割の違いであり移り変わるものだ。それに対して我々はたまたま目の前の一部の状態を見てこれは三日月、これは夏と解釈し、こっちが良いあっちが悪いと意味を与えている。

 競技も自然の一部であり例外ではない。努力が足りなかったから負けた、改善が勝ちにつながった、相手の技術が高くて負けた等々、ミクロな視点では確かにそう見えるかもしれないが、本来そういった因果関係は幻想である。ただその時たまたま片方の体験、状況が目の前にあり、勝ち負け、良い悪い、自ら感情や解釈を載せてそれらしく理解した気になっているに過ぎない。勝ち負けに関しては常日頃から自己肯定感や評価、直接的な経済的メリットに結びつけるよう常に暗示に囚われているため、より認知が歪みやすい。

 それに対して我々の中で何が起こっているのか。本来、目の前の状況は外で起こっているのではなく、我々の内面が風景を作り出して見せている。形而下の意識が片方に執着し求めることは極めて不自然な状態であり、我々の無意識だったり形而上の法則がバランスをとり己に気づきを与えるため、求めていない方の現実が目の前に作り出される。正確には作りだされる、ではなく自ら状況を作り出している。

 片方の結果に執拗にこだわったり、逆に見たくないからと避ければ避けるほど、望んでいない結果が展開される理由がここにある。

 では勝ちでも負けでもない、本質とは何か?

 それは内発的動機に基づいた経験をする事である。ただワクワクするからやる、やりたくてしょうがないからやる。それだけでよいのであり、それだけで十全なのである。結果など入り込む余地はないし、ましてや意味、解釈や価値判断など全く必要がない。

 一部の例外はあるかもしれないが、本来我々はそういう気持ちで競技を始めたはずだ。面白そうだからやってみよう、なんか憧れるからやってみたい、すこしだけ興味があるから触れてみたい、どんな小さくても一番最初に内発的動機があったはずだ。

 それがいつしかどうだ。上手くならないと意味がない、評価されないと自分の価値が下がる、勝たなければいけない、負けてはだめだ、もっともっと、もっと訓練をして出し抜き、成長、発展、勝利、優勝・・・何かに駆り立てられるように全力で本質から遠ざかっている。その苦行の先になりたい姿はなく、幸福もない。

 そうではなく、なりたい姿やワクワクするような在り方を決めるだけでいい。スキル、技術、経験値、金銭、他者評価など、すぐ手段や出来ない理由を作り出して自己否定するのは、非常に悪い癖だ。特に日本はこの傾向が強く不幸が蔓延している。

 心の底から望む自らの在り方を、今ここで自分で決めるのだ。自分だけの王国なのだから在り方は何でもよい。世界の舞台の表彰台に立っている自分。しかもこれまでの苦行の結果ではなく、子供だったあの頃の様な好奇心とワクワクが解放されて勝手に手に入っている。毎日競技をするのが楽しくてしょうがなく、一日が感謝で終わる日々。そしてどんな一時的な結果であっても、頑張ったね、うれしいね、悔しかったね。また明日も頑張ろうねと自分の感情に寄り添える自分。

 実は、前述した望んでいない結果をもたらしている無意識は、ずっと気持ちを無視され続けてきた幼い自分の姿なのかもしれない。成長しさえすれば、評価されさえすれば、勝ちさえすれば、報われる。本心は泣きたいくらい辛くても、そんな感情を弱いと切り捨てて蓋をし耳を貸さずに来た自分。あの頃の自分を暗い部屋の隅に何十年も置いてきぼりにして、ついに本当の気持ちさえ分からなくなり、不安をかき消す様に一心不乱に己を駆り立てきた自分。そんな気持ちに気付いてほしい一心で望まない風景を作り出してきたのかもしれない。

 自分の素直な声に耳を傾ける在り方を選び、やっと気づいてくれたんだね、とあの頃の自分と邂逅した瞬間から、全てが雪崩のように手に入るだろう。

ブレイクスルーとは何なのか

 ブレイクスルーには何が必要なのか。技術、意識、メンタル、技術、ゴール、KPI、等々、ブレイクスルーそのものを要素分解しようとすることに意識が向きがちだ。

 どれも成分としては間違ってはいないだろうし、シチュエーションによっては正しいだろう。が、本質的性質として何かが存在するためには外部要因や対立概念が必要である。ブレイクスルーに対する、光には闇、自己には他者というような対立概念は何だろうか。それは壁である。壁があるからブレイクスルーが存在できるのであり、逆に言えば壁がないブレイクスルーは存在しない。自分にとってその視点は新しいものであった。なにかを克服したり目指したいのであれば、対象それ自身だけではなく構造をとらえる必要がある。

 可能性が広がる理由は星の数あるが、無くなってしまう理由はただ一つ、自分が諦めて終わらせる現実を確定させた時だけである。逆に言えば確定しない限り無限の可能性はすでに存在し続けるのであり、観測者問題的な本質と軌を一にする。そこに定量的な成績や金銭、技術、感情、ましてや他者評価などが介在する余地は全くなく、0.001%であっても動き続ける限り可能性は0にはならない。

 0になるとしたらそれは自ら辞めた時だけなのだから、結論、壁の構造を脱する唯一の方法は今ここでコントロールできる範囲をアクションし続けるしかなく、目の前のこのアクションがそのままあらゆる可能性に向けてつながっているのではないか。

圧倒的な実力を手に入れるにはどうすればいいのか

 圧倒的な強さに対して何が足りないのか?テクニック、フィジカル、メンタル、経験、何が今の自分にとって必要なのか?結局目と体のフィジカルの割合が大きいのではと仮説を立てて取り組んでいるものの、突き抜けたプレイヤーになるための何か、そこへの道筋はまだ何も見えていないし実感もない。明らかに段違いに勝てるようにはなってきているし、その理由としてフィジカルや技術の向上、経験も何もかもベースアップはしていると思う。結果や記録も出ているがビックトーナメントでは結果が出ていないし、しかるにワールドクラスなど夢のまた夢の状態である。

 絶対的に必要な何かが足りていない感覚に常にさいなまれている。渇望感、不満足感、未達成感など。ブレイクスルーがあるのかないのか。この先に果たして圧倒的な強さであったり勝利の道が開けるのだろうか。全く未知であり答えはまだない。

レスト側の腕の使い方について

 最近左手を伸ばすことを検証している。菱形筋の収縮と胸筋を伸ばすことで、肩甲骨をロックするというところまでは大前提だが’(腕だけ伸ばすと肩がズレて逆に不安定になる)、加えて左手を伸ばすことでグリップからレストまでの距離を一定に保ち、安定性が向上しないかという仮説だ。

 また腕を伸ばすことに加えてレストハンドの向きをどうするか。手首を少し左側に向けたところ、オープンレストであればVゾーンがより正面に向くこともそうだが、肩甲骨がより柔らかく寄せられて安定感が増すことに気付いた。

 感覚としてはさらにフィジカルの完成度が高まった感覚があるが、今後も検証していく。

効き目、ビジョンセンター、フィジカルのアライメント矯正方法について

 両眼視の際見えている左右のビジョン(本当は常に二重に見えているのだが、あえて一つに見えるように脳が処理をしている)に対して、効き目で方で見た際のビジョンを違和感なく合わせていくために何が工夫できるかと考えた。

 要は、常に正しい方の目を使った視界のインプットに対して、アライメント、ウォークインに加え、さんざん検証してきた筋肉をアウトプットしていくことにより、フィジカルの一連の正確さを極めて行こうという話なのであるが、引き算の理論で余計な情報をシャットアウトしてみるのはどうかと考えた。そこで眼帯を手に入れて効き目ではない方の目を覆ってプレイすることで何が起こるのか試してみたというわけだ。自分は右利きなので、左に眼帯をしてそのままプレイをしてみた。

 最初はかなりの違和感があり、真っすぐ狙えているつもりなのに全く想定通りに構えられておらず結果球を外しまくってしまった。さらに自分のプレイを録画してみたが、そもそも手球のかなり右を真ん中と勘違いしてしまって合わせており、それはまともにつけるわけはないよなー、といった具合であった。

 仮説として考えらられるのはただ一つ。普段正しく目が使えていないため左目の視野にかなり引っ張られて錯覚して狙っているものの、経験でうまく体で合わせてプレイをしている(結果的に何となく球が入っている)。加えて、おそらくフックのコジりはそのせいではなかろうかという事だ。本来右目の視野でアライメントを合わせなければならないところ、左目の視野に引っ張られた風景に合わせているため、フィニッシュの段階で体が右目の視野に合わせようとしてフックしているのではという仮説である。

 球を入れる入れないはこだわらず、眼帯をしながら視界、ルーチン、筋肉、キューイングを意識してゆっくり合わせていくような練習を2~3時間行った。結論非常に効果的であった。

 まず第一段階として、眼帯をしても球が入るようになった。風景のインプットと体のアウトプットが徐々に一致し、ウォークインやアライメントなどもそれに合わせておそらくよりよい位置に修正されてきた感覚があった。

 次に第二段階として眼帯を取ってプレイしたのだが、眼帯装着時の視野と感覚が残っているためこれまでよりしっかりと狙いたい方に手球を運べている感覚があった。また、的球が違う入り方をしていることに気づいた。要はこれまでコジって合わせていた分、今までの狙いをすると思ったより薄かったり厚かったりするのだが(厚みの微調整は行った)、手球とキューのインパクトが明らかに重くよりしっかり捉えられている感覚が増し、的球もきれいに転がっていた。おそらく手球の重心に対して従来より少ないエネルギーロスでアプローチできているため、予期しない回転やジャンプが抑えられているものと推測する。その証拠に精度が悪かったドリルをやってみたところ、かなり楽にコントロールができるようになった。

 この眼帯練習はあらゆるレベルに関わらず、基本練習に取り入れるべきものと考える。むしろ初心者に近い方が効果が高いかもしれない。

ドーパミンと意欲の関連性について

 スタンフォード大学の教授がドーパミンの影響と振る舞いについて興味深い言説を行っていた。

youtu.be

 要は、快楽や万能感にはドーパミンが大きく関与しているものの、それらは常に続くものではなくシーソーのように逆の揺り戻しがあるというものだ。

 しかも大きな多幸感のスパイクに対する揺れ戻しは、ドーパミン分泌レベルの標準値を大きく割り込み沈み込んでいくように作用するとのことである。さらに、ドーパミン分泌量が多い=より大きく長い幸福感であればあるほど、沈み込みのレベルも比例して大きく長くなっていくという。つまりどんな気持ちよさを味わおうと全体としてみれば絶対値として差し引き0に向けて体がバランスをとるように作用するようにできており、まさにホメオスタシスというところである。

 彼女の説によると、この仕組みは太古の人類の行動や進化上の選択と淘汰に深くかかわっているとのことで、つまり「空腹や疲労、欠乏などストレスがかかっている状態=ドーパミンレベルが低い状態」が普通であるような環境で、「ドーパミンレベルを標準値に戻す=報酬を見るけるための主体的な行動」に向けられた個体が生き残った結果だという。

 ここまでが基本の考え方であり、対して現代では様々な刺激等々によりドーパミンレベルが人間が本来処理しきれないレベルにまで常に高まっている状態であり、ホメオスタシスが逆に働くことで鬱や燃え尽き等の精神疾患やネガティブな行動の原因となっている。また同時に、何とか高ドーパミンレベルを維持しようとする渇望がいわば中毒症状を引き起こすことで様々な衝動的な行動や感情につながっているのだという。

 これは個人の体験と照らし合わせても膝を打たずにはいられない。例えば、結果を残したすぐ次の試合でなぜか全く気持ちが付いてこないようなシチュエーションである。これは直近でもあった話で、難易度の高い試合で勝利を続けていたものの、普段の慣れ親しんだトーナメントで全く気持ちが入らなくて結果につながらない、といった話だ。

 ではどうすればよいか?環境を太古のような厳しい環境状態に180度変えるという事は勿論現実的ではない。彼女はこの体の仕組みをハックしていくことが重要と唱える。

対談者:「つまり逆に考えれば、快楽を得るためには、意図的に体やメンタルヘルスに苦痛を与えればいい。そうすればグレムリンが今度は逆側に飛び移って快楽をもたらしてくれると?」

 

教授:「まずは中毒性のある物質を避ける事。使用する場合には適度に、感覚を十分い空けて、グレムリンが飛び跳ねてホメオスタシスの回復が行われるようにすることです。」

「他には意図的にバランスの苦痛側を刺激することもできます。エクササイズをするとか、冷たい水に浸かるとか、断続的なファスティングをするとか、そのほかの禁欲的なことをするとか。」

「そして苦痛の側に圧力をかけると、グレムリンは快楽側に飛び移ります。」

「先に代償を払うことで、間接的にドーパミンの放出を得るのです」

 纏めると、

 「苦痛を先に与えてバランスをとることが、ドーパミンレベルを適正に保つカギとなる。結果、正常な幸福感しいては競技であればメンタルパフォーマンス維持につながる。」

 と結論付けられる。にわかには信じがたいことであるが、考えてみれば古今東西の宗教者の禁欲であったり断食の文化が連綿と残っていたり、最近では美容健康法などを通じた実践者や一定以上の支持が集まっているところを見ると、蓋然性はあるように思う。

 そして物は試しという事で、さっそく朝冷水を浴びつつ、トレーニングの強度も高めにする試みを実践してみた。まだ2回目であるが、身体感覚の変化やメンタルの変化、競技のパフォーマンスの変化について継続的に検証していく。