勝敗とはどういったものなのか

 我々は「負け」より「勝つ」ことの方が良いであったりとか、そこに対して意味づけや目的の付与といった過剰な解釈、結果に対して執着を持ちやすい。

 一般的に勝利という結果に価値があるという事を、我々は疑いようもなく刷り込まれており、良いとか悪いとかの意味づけを、いわば思考停止的に受け入れて過ごしているため、普段それらに対し本質はいったい何なのだろうかという疑問、相対化した考えを持ち得ていない。勝=利。勝つことに利があるという解釈に骨の髄まで囚われてしまっている。

 我々をして他者を出し抜き、病的に勝利に駆り立て、格差を生み対立させることでことでメリットを得ている存在があり、それが何なのかは今回のテーマから逸脱するのでので述べないが、その牢獄から自由になるために、まず気付くことが重要である。

 では勝ち負けとは何か。「勝ち」とは負けていない状態、「負け」とは勝っていない状況である。今更何をと思うが、これは本質であり世の中の真理に近い。負けが在るためには勝ちが必要であり、逆もまた真、表裏一体である。いわば一枚の紙、コインの裏表であり、表だけが欲しいとか、表の方が価値がある、いや裏だ、などという片方を望む望まないという議論は的外れであり、表を破れば裏も破れるのであり、裏を求めれば表も付いてくるのであり、裏と表両方で完結しているのである。

 これはこの世の不変的な法則である。月の満ち欠け、季節、川の流れ、男女、水・氷といった物質の容態、全てにおいて共通している。両方や全ての性質を合わせて全体なのだ。今見えている状態はスナップショットであり大いなる全体の一面に過ぎない。役割の違いであり移り変わるものだ。それに対して我々はたまたま目の前の一部の状態を見てこれは三日月、これは夏と解釈し、こっちが良いあっちが悪いと意味を与えている。

 競技も自然の一部であり例外ではない。努力が足りなかったから負けた、改善が勝ちにつながった、相手の技術が高くて負けた等々、ミクロな視点では確かにそう見えるかもしれないが、本来そういった因果関係は幻想である。ただその時たまたま片方の体験、状況が目の前にあり、勝ち負け、良い悪い、自ら感情や解釈を載せてそれらしく理解した気になっているに過ぎない。勝ち負けに関しては常日頃から自己肯定感や評価、直接的な経済的メリットに結びつけるよう常に暗示に囚われているため、より認知が歪みやすい。

 それに対して我々の中で何が起こっているのか。本来、目の前の状況は外で起こっているのではなく、我々の内面が風景を作り出して見せている。形而下の意識が片方に執着し求めることは極めて不自然な状態であり、我々の無意識だったり形而上の法則がバランスをとり己に気づきを与えるため、求めていない方の現実が目の前に作り出される。正確には作りだされる、ではなく自ら状況を作り出している。

 片方の結果に執拗にこだわったり、逆に見たくないからと避ければ避けるほど、望んでいない結果が展開される理由がここにある。

 では勝ちでも負けでもない、本質とは何か?

 それは内発的動機に基づいた経験をする事である。ただワクワクするからやる、やりたくてしょうがないからやる。それだけでよいのであり、それだけで十全なのである。結果など入り込む余地はないし、ましてや意味、解釈や価値判断など全く必要がない。

 一部の例外はあるかもしれないが、本来我々はそういう気持ちで競技を始めたはずだ。面白そうだからやってみよう、なんか憧れるからやってみたい、すこしだけ興味があるから触れてみたい、どんな小さくても一番最初に内発的動機があったはずだ。

 それがいつしかどうだ。上手くならないと意味がない、評価されないと自分の価値が下がる、勝たなければいけない、負けてはだめだ、もっともっと、もっと訓練をして出し抜き、成長、発展、勝利、優勝・・・何かに駆り立てられるように全力で本質から遠ざかっている。その苦行の先になりたい姿はなく、幸福もない。

 そうではなく、なりたい姿やワクワクするような在り方を決めるだけでいい。スキル、技術、経験値、金銭、他者評価など、すぐ手段や出来ない理由を作り出して自己否定するのは、非常に悪い癖だ。特に日本はこの傾向が強く不幸が蔓延している。

 心の底から望む自らの在り方を、今ここで自分で決めるのだ。自分だけの王国なのだから在り方は何でもよい。世界の舞台の表彰台に立っている自分。しかもこれまでの苦行の結果ではなく、子供だったあの頃の様な好奇心とワクワクが解放されて勝手に手に入っている。毎日競技をするのが楽しくてしょうがなく、一日が感謝で終わる日々。そしてどんな一時的な結果であっても、頑張ったね、うれしいね、悔しかったね。また明日も頑張ろうねと自分の感情に寄り添える自分。

 実は、前述した望んでいない結果をもたらしている無意識は、ずっと気持ちを無視され続けてきた幼い自分の姿なのかもしれない。成長しさえすれば、評価されさえすれば、勝ちさえすれば、報われる。本心は泣きたいくらい辛くても、そんな感情を弱いと切り捨てて蓋をし耳を貸さずに来た自分。あの頃の自分を暗い部屋の隅に何十年も置いてきぼりにして、ついに本当の気持ちさえ分からなくなり、不安をかき消す様に一心不乱に己を駆り立てきた自分。そんな気持ちに気付いてほしい一心で望まない風景を作り出してきたのかもしれない。

 自分の素直な声に耳を傾ける在り方を選び、やっと気づいてくれたんだね、とあの頃の自分と邂逅した瞬間から、全てが雪崩のように手に入るだろう。